阪神淡路大震災から28年

 あの日、私はたまたま台湾人のお友達に会いに台北に遊びに行っていました。当時勤めていた会社の台北支社の方から「日本が大変だ。大地震が起こった。至急会社まできなさい。」とお友達の自宅に連絡が入りました。「何事だろう?」わけがわからぬまま台北支社へ行ったところ、テレビの映像に阪神高速がひっくり返っていたり、あちこちで火災がおきている壮絶な映像が映っていました。 すぐに兵庫県の実家に電話してみなさいと言われ、電話したところうまく電話がつながり、母が「みんな無事だから心配しなくてよい。電車も動いていないから帰ってこない方がよい。」とまで言われました。帰ってこなくてもよいと言われても予定通り帰国。大阪の親戚の家に一旦身を寄せ、翌日はひとまず会社へ出勤。会社ではすでに社員たちが救援物資隊として準備を整え、得意先の皆さんへの手助けの為に出発していました。私も水などをもらい、自ら救援物資隊として、家族に食べ物を仕入れ、水を持って自宅へ向かいました。大阪から甲子園までしか電車がうごいておらず、そこから徒歩で物資を運びました。その時に一緒に自宅へ物資を運んでくれた同期に感謝しています。

両親に起こった幸運

 その日は父が仕事で広島へ行くために母を助手席に乗せて新神戸駅まで向かっていたそうです。 いつも通り阪神高速に乗ろうと、高速入口へ向かう道路に入りかけたところ、なんだか嫌な予感(走行中にどうやら地震のせいで一瞬ハンドルをとられたため、なにかしらの異変を感じたようです)を感じた父は「空いていることだし、下道で行こう」とバックして国道に戻って走行しなおしました。そのまま走り進めると阪神高速が陥落しているのをみて肝を冷やしたそうです。 
 仕事の鬼だった父はそのまま新神戸駅へと行きましたが、新幹線など動いているはずもなく、駅は水浸しで尋常ではなかったと言っていました。地震直後は状況把握ができず、そこまで深刻な状況だとはわからなかったのです。結局そのまま自宅まで戻る間、家が倒壊し、あちらこちらで火災が発生する中を潜り抜けてなんとか自宅へ戻ったようです。自宅にいた兄と弟はベッドから1m以上飛び上がった気分だったと聞きました。そして、部屋のドアが家具が倒れたせいで開かなくなり、すぐには出てこられなかったそうです。
 なんとか私以外の家族の無事が確認しあえたとはいえ、家の中の家具や家電が全て倒れ、ガラスの破片などで足の踏み場を無い状態だったので、まずは足元の片付けがスタート。後から兄が撮影した両親が寝ていた布団の上に洋服ダンスが倒れ落ちている写真をみてぞっとしました。ここでねていたら家具に押しつぶされてそれこそどうなっていたことか・・・
 阪神高速に乗らずに済んで生き延びた幸運、家で寝ていなかったせいで家具に押しつぶされることがなかった幸運に感謝です。地震を体験せずに済んだ私は、お掃除隊として家族の支えになろうと奮闘しました。弟は随分ショックを受けており、しばらくの期間、何も手につかない状態(放心状態)でした。何度も何度も襲ってくる余震でさえ恐ろしく感じ、余震が来るたびにこのリュックをもって逃げようと決めていたのに結局はその時掃除していたほうきと塵取りをもって慌てて外にでた自分に「結局こんなもんだよな。必死になると飛び出す(逃げる)だけで精いっぱい。」と実感したものです。
 とにもかくにも家族が無事であって本当にありがたかったです。 命さえあればなんとかなるもの。その後は家具を置く際も地震対策に気を配るようになりました。自分の命を守るためにも防災対策はしっかり考えていく必要があります。 どうか皆さんもいつ何が起こるかわかりませんので、出来る対策は早めにとりかかってください!! 悲惨な天災が起こらず、平穏に暮らせるようにと切に願います。

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